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【ぼくらの90年代音楽論 30年前の「音楽」の「普通」】大谷能生×宮里潤・対談を終えて 音楽だけではない 「忘れられた名作」を「新作」として発見する (1/3ページ)

■大谷能生×宮里潤 対談(1)

■大谷能生×宮里潤 対談(2)

■大谷能生×宮里潤 対談(3)

 宮里さんとの対談、いろいろと思い出すことがあって面白かったです。ワタクシ、思い出してみると、最初に自分のおこずかいで買ったLPレコードが、クイーンの『The WORKS』なんですよ。折しもMTV全盛期で、「RADIO GA GA」が入ってるってことで買ったのですが、その時に天秤にかけて結局買わなかったのが、プリンスの『パープル・レイン』なんですね(ちなみにそれ以前に、最初のレコード屋さんでの買い物はカセットテープの『ナムコ・ビデオ・ゲーム・ミュージック』でした)。

 プリンスか、フレディ・マーキュリーかの二択だった訳ですが、この二人はMTVの中でも、画面に出てくると、「TVで見れるホント変わった変態」(失礼)ってことで特に印象が強く、地方の少年にとってその姿には強烈な魅力がありました。

 late80s~early90sにおいては、「洋楽」というものは、今と違って(なのかな?)まだしっかりと「異文化」という箱に入っていたように思います。だからTVでもこの二人を「他者」として映し出してくれていた。ウチの親も、MTVは「外国のもの」ということで、洋画と同じように、特になんの検閲も無しに見させてくれていたと思います。

 そうそう、「洋画」もなんでも見に行けた。僕が映画を一番見ていたのは80年代で、近所には洋画の封切り映画館があり、入れ替わりのたびに初日に見に行っていたんですが、このお小遣いは親から問題なく貰えていた。「洋画」っていうのは、僕の子供時代までは、基本的な教養として「見るもの」「見ていいもの」だった訳です。

 そのフィーリングはMTVまで繋がっていて、そこに映っているものはプリンスでもフレディでもマイコーでもマドンナでも、それが実際には何を表しているのかとは無関係な、ニッポン社会の外側にある「教養」として、受け止められていた。家のTVに映る異文化としての「洋楽」から、音楽というものを、自分の近所にはない、何か特別な、遠い世界にある素晴らしいものだと考え、専門誌でその情報をチェックして、新譜を楽しみに待つ。こういった、今思えばちょっと変わった「文化的受容形態」の末端に、僕も属していたという訳でしょう。