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【パリッコの「酒飲み12カ月」】踏んだり蹴ったりの1日も、良き酒場があれば……

 またやってしまった……。もう何度目だ……。酔っぱらって終電を逃し、やむなくタクシーを使う。幸いなことに、そこまで見当はずれな場所にいたわけではなかったようで、3000円程度のタクシー代で帰ることができた。あぁ、これで布団で寝られる。ほっと一安心するも、気づけばスマホが見当たらない。慌ててPCを立ち上げ位置情報サービスを使って現在地を検索。ポインタは京王井の頭線、永福町駅を指している。しばらく何度かページをリロードするも、移動する気配はない。今日、井の頭線を使った覚えはないけれど、きっと何かしらの理由で駅に届けられたのだろう。少しだけ安心し、一度眠る。

 翌朝、再度ページをリロードする。そのまま永福町駅にあれば、電話して取りに行けばいい。が、ポインタが指しているのは、はるか荒川区、南千住の街だった。地図を拡大すると、そこにタクシー会社がある。なるほど、乗っていたタクシーの運転手さんが永福町あたりで客待ちをしたか夜食でもとったかして、それから本部に戻ったというわけか。妻のスマホを借りて問い合わせてみると、確かに保管されていた。ありがたや……。

 現代の日本人の多くはスマホ依存症の気があると思うが、もちろん僕もそのひとり。手元にスマホがない状態は、まるでパンツを履き忘れているかのようなソワソワ感で落ち着かない。それでも、仕上げて大急ぎで送ってしまわなければいけない原稿仕事がいくつかあった。必死でそれらをこなし、なんとか全て終わらせられたのが午後3時半頃。よし、我が分身を迎えに行こう。

 石神井公園駅から西武池袋線で池袋駅へ。池袋駅から山手線で日暮里駅へ。日暮里駅から常磐線で南千住駅へ。はるばる出かけてきた、酒場天国のような街。しかしながら今日は、まだまだやることもあるし、家族だって家で待っているのだから、とんぼ返りせざるを得ない。スマホがないから、雑にメモった地図を頼りにタクシー会社へ向かおうとするも、改札を出て線路を渡り逆方面に行く、たったそれだけのことがなかなかできない。駅前に戻っては地図とメモを照らしあわせ、再チャレンジを繰りかえす。こんなことも、スマホさえあれば一発なんだろう。現代人、能力の一部をスマホに任せきった結果、完全に退化してるよな。

 しかもだ。今夜はやたらと冷えこみやがる。数日前までは日中なら半袖にハーフパンツでじゅうぶん過ごせたりしたのに、今はまるで真冬だ。季節の変わり目っていつもそう。何を着ていいかわからないから、半袖Tシャツに薄手のブルゾン、みたいな格好で来てしまった結果、ガタガタと震えが止まらない。ていうか実は、雨もかなり降ってる。そういう日もある。それはわかっているんだけど、油断すると泣いてしまいそうだ。

 それでもどうやら、入り組んだ歩道橋をとにかく南へ進んでいけば、目的地方面に向かえることがわかってきた。時刻は午後5時少し前。途中の高架下に古そうな酒場があって、その前で開店待ちをしているサラリーマン数人組がいる。楽しそうだな。しかし今日の自分には関係ないこと。やがてなんとかタクシー会社にたどり着き、無事スマホを受けとって、帰路につくことができた。

 引き返す道すがら。さっきの店がオープンしている。窓ガラスからはぼうっと暖かそうな光が漏れている。外壁に貼られたメニューの「牛にこみ 二五〇」の文字に、とうとう自我が崩壊した。ダメだこりゃ。寄らないと死ぬ。えい、15分一本勝負なら! と、気づけばのれんをくぐっているのだった。

 「大坪屋」という店らしい。広い店内を見渡して驚く。中央の作業スペースを取り囲むようにカクカクと変則的に曲る、コの字カウンターの最終進化形態みたいなカウンター席が圧巻。というかそもそもここ、不勉強が恥ずかしいが、こういう仕事をしている者ならば一度は行っておかないといけない超有名店だ。店内の風景を見て思い出した。まだ開店直後で、客の姿はまばら。大型のテレビでは相撲中継。石油ストーブの上では、やかんが白い湯気を上げている。

 フロアをひとりで取り仕切る女将さんが、いわゆる割烹着姿ではなく、上下黒のブラウスにロングスカート姿で、普通じゃない存在感がある。空いているカウンター席に着き、「ホッピーセット」と「牛にこみ」を注文。待っていると、キンミヤ焼酎の入ったジョッキとホッピーの瓶が、目の前にドスンドスンと荒々しく置かれた。さっきのサラリーマングループが女将さんに、「頼んだチューハイセットがしばらく来ていなくて……」と告げている。すると決して「すみません」などとは言わず、「チューハイね!」とすぐに準備し、テーブル席へドスンドスン。それを受けたサラリーマンたち、「ありがとうございます!」。はは、なるほど、客に媚びないタイプの女将さんなんだな。うん、すごく素敵。

 ホッピーを作ってちびちび飲んでいると、煮込みがやってきた。小ぶりの皿にちょうどいい量。細切りの牛モツと玉ネギを、甘みは薄く、味は濃いめにキリッと煮込んである。ゆっくりかみしめてホッピーをぐびり。そのじんわりとしたうまさと、店内の暖かさに、気づけばこわばっていた体も心もずいぶんほぐれている。たった数百円でこの効果。やっぱり酒場の力は偉大だなぁ……。

 ナカをおかわりしてホッピーを飲みきったら、こうなりゃさらに芯から温ったまってやれと、「湯どーふ」と「焼酎お湯割り」を注文。湯豆腐は200円。焼酎お湯割りはなんと180円だ。薬味にたっぷりと醤油を注いで食べる熱々の豆腐が、とろけるうまさ。それをお湯割りで追いかける。豆腐と甲類焼酎。究極に主張のない二者による究極のマリアージュ。もはや今日の辛かった、大変だったことあれこれは、すっかり溶けてなくなってしまった。

 ガラリと戸が開き、いかにもな常連のおじさんがカウンターの真ん中に座る。すると女将さん、それまで一度も見せていなかった満面の笑みで「あらお父さん、雨なのにいらしてくれたのね。ふふふ」と、注文も聞かずに梅入りのチューハイを差し出す。もちろんこれは客に対するえこひいきなんかじゃない。長年通った常連と女将さん、人対人の信頼関係の姿だ。それを見て僕は、この店がより好きになった。僕の今日という日を、大逆転の良日に変えてくれた店と女将さん。電車を2回乗り換えるくらいなんだ。またゆっくり飲みにこよう。

■パリッコ 酒場ライター。著書に『酒場っ子』『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』、スズキナオ氏との共著に『酒の穴』『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』。「晩酌ほろ酔いクッキング」(漫画ゴラク)「今日は早退します!」(東京ウォーカー)他、連載も多数。TV東京「音流~ONRYU~ 酒場サーキット」出演中。