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【ぴいぷる】争いに満ちた世界に届け!「愛の歌」 来年デビュー50周年、シンガーソングライター・長谷川きよし (1/2ページ)

 ガットギターをかき鳴らして歌う。デビューシングル「別れのサンバ」(1969年)はラジオの深夜放送から火が付き、大ヒットとなった。来年デビュー50周年。記念コンサートが続く。

 「これまでは自分から『何周年』なんて言うのは抵抗があったけれど、さすがに50年経ったんで記念してもいいのかなって。とにかく、自分がいいと思ったものだけを歌ってきて、今でも聴きに来てくれる人がいる。やってきてよかったと思います」

 シャンソン、ラテン、ポップスなど、さまざまなジャンルの要素を取り入れ、ギター・テクニックとしなやかな歌声で当時の若者を魅了した。

 「デビューの頃は、ギターを弾いて歌う人はみんなフォークシンガーって言われて。シンガーソングライターなんて言葉はなかったし、ぼくはフォークを歌っているつもりはなかったんだけれど」と苦笑いする。

 2歳半で失明。歌手である前に「盲目の」という枕詞(まくらことば)も必ずついて回った。

 「メディアのなかには、障害があることを前面に出してぼくを取り上げようというアプローチも結構ありましたけれど、そういうものは一切断ってきました。だから『うるさい奴』『面倒な奴』と言われましたね。でもそう見られることを払拭できなければだめだと思っていましたから」

 目が見えないことを理由に暗に避けられたこともあったという。

 「あるテレビ局では、『長谷川きよしが映ると画面が暗くなるからだめだ』っていう話が出たことも聞きました」

 こうした“偏見”をものともせず、次々とオリジナル曲を発表。その一方で、野坂昭如が歌った「黒の舟唄」のカバーや加藤登紀子とのデュエットによるフォルクローレ調の「灰色の瞳」などをヒットさせた。

 順調な歌手活動だったが、79年に離婚、個人事務所も閉じてからは精神的にも追い詰められ、音楽からも離れていく。

 「(自分のことを)誰も知らない函館に行き、マッサージ師の仕事に就いたんですが、そこで今の妻と知り合い、この先のことを考えるようになりました。結局、針きゅうが上手なわけじゃないし、やっぱり自分にできることは歌うことしかない。そう思い、東京に戻りました」

 助け舟を出してくれたのは歌手の浅川マキだった。83年に彼女のプロデュースによるアルバム「ネオン輝く日々」を発表すると、ライブはもとよりエッセーの出版や芝居とのコラボレーションも手掛けるようになる。10年後の93年には、ブラジルのサンバの歌い手、カルトーラの曲をタイトルにしたアルバム「アコンテッシ」を発表。セルフカバーの「別れのサンバ’93」をはじめ、タンゴの巨匠、ピアソラの「忘却」を日本語で叙情たっぷりに聴かせるなど、多面的な音楽世界を開花させた。

 東日本大震災がきっかけとなり、それまで住んでいた群馬県を離れ、長年憧れていた京都に引っ越すと、翌年にはNHKの歌番組「SONGS」に出演することに。

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