zakzak

記事詳細

【ぴいぷる】生涯一ライブ奏者、難波弘之 落語、SF大好き少年がプログレに目覚めて50年超 (1/2ページ)

 テレビから音楽番組が続々姿を消し、レコード会社もアーティストにそれほど関心を払わなくなった。音楽、特にロックの立ち位置は変わってしまったが、金子マリ&バックスバニーでバンドデビューしてから40年以上が過ぎても、“好き”への思いは変わらない。

 「本当に40年間、同じことを続けています。20代の頃組んでいた金子マリ&バックスバニーも40年ぶりに始めてみたり。でも、みんな丸くなっていないのがいい。再結成後も大ゲンカして、若いスタッフがビビっていたくらいですから」

 “好き”へのこだわりは小学生のときからだ。

 「ラジオを聴いていて落語が好きになって、寄席に通うようになりました。浅草の演芸ホールや人形町末廣にひとりで通う小学生だったので、ビックリされましたね」

 次はSF。「中1のときにSF同人誌の『宇宙塵』に入会。渋谷の喫茶店カスミの集会にも参加して、平井和正さんや星新一さんにお会いしました。SF大会で手塚治虫先生と知り合えたり。今は小説は書いていませんが、最近、僕のSF評論集を出す話が出て、そのリストを見たら、こんなに書いていたのかと驚きました。実は大学を卒業するとき、半村良先生の書生にならないかという話もあったんです」

 そしてロック。父がジャズ・アコーディオン奏者、母がフランス近代歌曲の声楽家という環境から音楽には慣れ親しんでいたが、一気に熱が上がったのはGSブームがわき起こった1960年代後半だ。

 「ザ・ゴールデン・カップス、ザ・モップスとか、GSの中でもロック寄り。不良っぽくて、メンバーの衣装がバラバラなのもカッコ良かった。僕はまた中学生のときに制服で観に行っていて、面白がられていました。大野克夫とミッキー吉野が好きでした」

 70年代に入るとプログレッシヴ・ロックの波が押し寄せ、ジャズ界にも巨星が続々登場した。キーボーディストには“たまらない”時代だ。

 「ELPのキース・エマーソン、PFMのフラヴィオ・プレモリ。ジャズではチック・コリア、ハービー・ハンコック。ビリー・プレストンも好きでした」

 学習院大を卒業するとき、選んだ職業はプロのミュージシャン。不安もあったが、恩師の藤原義久氏(中学時代の音楽の教師で作曲家)が後押ししてくれた。

 「テレビの『ひらけ!ポンキッキ』で、先生が作曲した『宇宙船地球号のマーチ』を録音するときに僕が呼ばれました。当時は珍しかったシンセサイザーを担いで、それが初めてのスタジオでの仕事。数本目の仕事で三枝成彰先生と出会えて、どんどん仕事が広がっていきました」

 様々なバンド、サポートを経験し、いよいよソロ・アルバムの発表となったのが79年の「センス・オブ・ワンダー」。それがそのままキーボード・トリオ(ベース&ドラム)のバンド名「SENSE OF WONDER」となり、以後ライフワークとなった。

 「山下達郎のバンドも長年続けていますが、稼ぎはすべてSENSEへ(笑)。キーボーディストとして今も前線でやっているのは、ミッキー吉野さん、厚見玲衣くんと僕くらいなのかな。あとの人はだいたい、アニメとかゲーム音楽とか稼げる裏方に入っている。僕が今もライブを続けているのは、“大好き”だからです」

 元祖オタクを公言し、寄席から数えれば60年間近く、やりたいことを続けてきた。88年から東京音楽大学で教鞭を執る立場にもなり、今春には白板症(口の粘膜が白色に変化する病気)を発症して手術入院という予想だにしない出来事もあったが、ブレることはいっさいない。

 「思わぬ病気も経験して、生きているうちにやりたいことをやっておかなくちゃと改めて思いました。まだまだ曲も書けそうだし、アルバムも出したいですね」

 生涯一ライブ・キーボーディストの“好き”は不変だ。(ペン・秋谷哲/カメラ・佐藤徳昭)

関連ニュース

アクセスランキング