【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】10カ月足らずで新人の枠を超えた存在感 コンサートもストイックに「完璧」求め (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

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10カ月足らずで新人の枠を超えた存在感 コンサートもストイックに「完璧」求め (1/2ページ)

 シングル『1/2の神話』発売から1カ月後の1983年3月23日、通算3枚目のアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉』を発売した中森明菜は、東京・新宿厚生年金会館(2月27日)を皮切りに群馬・太田市民会館(6月19日)まで全国18都市で全19公演「Akina Milkyway’83 春の風を感じて」を繰り広げた。明菜にとっては初の本格的全国ツアーだった。

 このシングルとアルバム、全国ツアーから担当プロモーターとして参加することになったのが田中良明(現在は「沢里裕二」として作家活動)。

 当初、田中はコピーライターとして売野雅勇とともに東急系の広告代理店にいた。ところが売野が『少女A』などの作詞で“時の人”となる中、アーティストのプロモーションに興味を抱き、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)に転職。配属されたのが邦楽宣伝課だった。ところが社内は明菜の「移籍」をめぐって、新レコード会社「マイカルハミングバード」が設立されるという“お家騒動”が勃発していた。

 「明菜のシングルやアルバムの発売が迫っている中で一体、どうなるのかと思っていたところ、デビュー当時から明菜の制作、宣伝を担当してきたほとんどの社員が転職してしまったのです。そこで残留スタッフだった私が明菜の宣伝を担当することになったのです」

 明菜はデビューして、まだ10カ月足らずだったが、「すでに新人の枠を超えた存在感だった」という。

 「とにかくスタッフに不満だらけだったことは直感しました。しかし彼女自身は、不満を口には出さない…そんな感じを漂わせていたんです。まだ年齢としては16、17歳でしたが、妙に冷静な感じでした。いずれにしても異様な緊張感に包まれていた…、それが今でも脳裏に残っています」

 ネットで明菜について検索すると「デビュー初期の段階から衣装、メイク、振り付けには自ら関わり、楽曲に対しても積極的に意見を取り入れていた」と記されている。が、実際の明菜はどうだったのか?

 「当時の、いわゆるアイドル界は、まだ本人よりもスタッフの意向のほうが強く働いていました。要するに本人がどうしたいかより、所属事務所やレコード会社のスタッフが『こういった方向で』『こんな衣装で』『こんな雰囲気で…』といった具合に、大人の事情で決めていました。思い返すと私自身もそう考えていた節が多々あったように思います」

 その上で衣装については「正直言って心の中では反発していたと思いますよ。その後の明菜の衣装を見たら分かると思いますが、とにかく彼女のファッションセンスはズバ抜けています。私がプロモートを担当してからもしばらくは、衣装がどんなに気に入らなくても、ハッキリと『着たくない』とは言わなかったと記憶しています。低い声で『はい、分かりました』と。それが実に不気味な感じでしたね」。

 一方で、コンサートについては自らの意思を明確に示していたという。

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