zakzak

記事詳細

藤原定家が「小倉百人一首」に選出

 先月、令和初めての「高校かるた選手権大会」が、『小倉百人一首』巻頭の、天智天皇ゆかりの近江神宮(大津市)で開催されました。全国386校の参加校から勝ち抜いた61校が参加。個人戦は2400人のエントリーがあり、参加者は10年前の4倍以上になっているそうです。

 掲出歌の「ももしき」は「宮廷」を意味する言葉です。元来、「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞ですが、次第に「宮中」そのものを指す言葉にもなりました。「軒端のしのぶ」は荒れた家の軒端に生える「忍草」。「忍ぶ」には「偲ぶ」が掛けられています。「宮廷の古き軒端の忍草を見るにつけても、偲んでも偲びきれないほどに慕わしいのはかつての聖代(昔のよい時代)の御世であるなあ」という歌意です。

 後鳥羽天皇の第三皇子だった順徳天皇は、王朝の権威を回復させようとした父と行動をともにしました。鎌倉幕府倒幕の計画に参加したものの、敗れます。世に知られた「承久の乱」です。父は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へと配流になったのでした。

 父が隠岐で崩御した際には、佐渡にいて、「同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに」(隠岐と佐渡で離れて暮らした父と私でしたが、今、父帝と今生の別れとなり、悲しみはいっそう募ります。空行く月を父の形見の御姿として仰ぐばかりです)という挽歌を詠まれました。

 そんな順徳天皇が王朝の権威が盛んだった時代を偲んで詠んだのが掲出歌です。学問に励み、歌道にも邁進していた順徳天皇は藤原定家に歌を学んでいました。配琉後の佐渡では歌学書『八雲御抄』も書き上げています。『新古今和歌集』の選者としても知られた藤原定家。歴史に残る和歌の名手が、『小倉百人一首』巻末の一首として取り上げたのがこの順徳天皇の御製だったのです。

 武士が台頭し、武力がものをいう世となっていた時代、定家も「昔の聖代をしのぶ」一人だったのかもしれません。国内外で『小倉百人一首』が注目される今、あらためて定家が巻末に据えた和歌に思いを馳せたいと思います。(歌人、作家・田中章義)

関連ニュース

アクセスランキング