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【ぴいぷる】不慮の事故で下半身不随も…奮い立ちパラリンピック3度出場 日本の車いすアスリートの先駆者・山本行文さん (1/2ページ)

 ■1カ月半も動けず

 「自衛官は天職だと思っていました」

 そんな希望にあふれていた陸上自衛隊第8特科連隊(熊本)所属の陸曹候補生だった20代のころ、作業中の事故で下半身不随になってしまった。少年時代から運動が得意で、自衛隊でもバレーボールや柔剣道などで活躍していた矢先だった。

 「背後の崖が突然崩れたんです。当時は携帯電話もありませんから、みんなが板を担架にして運んでくれました。揺れるトラックの中で、とにかく激痛に耐えるしかありませんでした」

 重傷で、対応できる病院がすぐに見つからず、やっとたどり着いての診断が「第一腰椎圧迫骨折」。脊髄損傷のほか、膝から下の腓骨(ひこつ)や脛骨(けいこつ)も折れていて、長時間の手術の後はベッドの四隅に柱が立てられ、全身をつり下げられて固定されたという。

 「食べるのもトイレも、ずっと上を向いたまま。とにかく、少しも動くことができない。その状態が1カ月半ほど続きました」

 寝返りができないだけでも辛いのに、そんな姿勢のまま、止まない痛みが続いた。自分の体が元通りになるのか分からない、想像を絶する不安の中で過ごさなくてはならなかった。よほど強靱(きょうじん)な精神力の持ち主に違いない。

 「精神的に追い詰められるなか、仲間が看病してくれたことが励みになりました」

 24時間態勢での母や姉の付き添いだけでなく、見れば、その傍らにはいつも必ず自衛官の姿があったのだ。

 文字通り身動きの取れない状態で耐えた。その状態から解かれると、今度は「立つ訓練」、そして「歩く訓練」へと進めていった。

 ■残り半分を2倍に

 といっても、実際には思うようにはならなかった。医師からは「下半身は戻らない」と宣告されていたのだ。それでも、リハビリに日々懸命になったが、ついに歩けるようにはならなかった。

 「これ以上は治らない」

 その心境に至るまでは1年半がかかった。しかし、その間に全身全霊でリハビリに励んだことが、車いすでの生活を決心させたのだ。

 そして、「車いすは、単に生活の手段だけではない」と魂を奮い立たされたのは、1981年に「第1回大分国際車いすマラソン大会」をテレビで見たときだった。悪化した腰の手術もあり、大分県別府市にある自衛隊唯一のリハビリ病院にいたとき、同じ境遇の人々が頑張っている姿に一念発起した。

 「これに挑戦しよう!」

 とはいえ、日本ではまだ練習法が確立されていたわけではなく、コーチは「自分自身」だった。また、病院では治療と同時に、自衛官として事務職の配置に就いていたため、トレーニングは勤務外の早朝と夕方以降しかできない。まずは午前4時半に起きて敷地内を車いすで走る。それも、古タイヤをもらってきて引っ張ったのだ。

 その光景は、初めは、けげんそうに見ていた周囲の人たちの心も動かした。やがて出勤前に河川敷で練習する外出許可が出て、同級生が車いす用の室内ランニング機を作ってくれた。

 「体の半分の機能がダメになったなら、残りの半分を2倍にしよう!」

 自身に課したトレーニングは、10キロのダンベル上げ800回、左右合わせて64キロのバーベル上げ60回、腹筋400回、10キロの砂袋を背負って腕立て伏せ100回、その後にランニング機で約2時間走るというもので、これを毎日、帰宅後に欠かさず続けた。

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