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【ABS流 令和NEWバブルのすすめ】すべてが輝いていたバブル 予算がつけばクリエイターの仕事は変わる (1/2ページ)

 1986年の夏の夕方、僕は東京・銀座の数寄屋橋から晴海方向に歩いていました。銀座方向からは、真新しいバケツ型のルイ・ヴィトンやシャネルのロゴ付きバッグと高級店のショッピングバッグを提げた女性たちが白いサンダルで涼しげに歩いてきます。

 和光のショーウインドーをのぞいた後、僕は銀座三越前を抜け昭和通りを渡り、歌舞伎座を過ぎて左の路地へ。間口の狭い定食屋や喫茶店などが並んだ先に、ピンクのタイル張りのポップなビルが立っています。ビルの入り口にはポパイの背中の絵が描かれており、出口にはオリーブがこちらに歩いてくる絵が描かれています。

 ここは当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった出版社、マガジンハウスの本社ビル。同社が出版していた「ポパイ」や「ブルータス」はバブル時代、学生やヤングエグゼクティブたちのバイブルでした。

 僕はポパイの打ち合わせやイラストレーションの納品で、このビルによく来ていました。なにせ当時は、バイク便や携帯電話も一般的ではなく、当然スマホやインターネット、ビデオ会議もない時代です。

 そのポパイ編集部ですが、部屋にはほとんど人がいません。「ボーヤ」と呼ばれていた電話番の学生バイトとデザイナーのチームくらいです。

 待ち合わせていた新人編集者と打ち合わせをしていると、「テニスのあと、六本木プリンスで泳いできたよ。ガラス張りのプール!」と言いながら日焼けした編集者が出社してきました。

 打ち合わせが終わる頃には外も暗くなり、それにつれて編集部はにわかに活気づいていました。夜に出社してきた編集者たちは、そのまま終電過ぎまで仕事やおしゃべりをして、その後タクシーで六本木や西麻布界隈に繰り出すのです。当然、翌日の出勤はまた遅くなります。

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